大学教育なんてものは下らない、という見解がある。それはかなり正しい。
しかし、だからといって、大学というものの存在価値がなくなるわけではない。大学の教育は下らないとしても、大学には素晴らしいものが一つある。それは、大学図書館だ。
大学の図書館は素晴らしい。そこは知の宝庫だ。最新のテクノロジー情報は欠落しているとしても、大学で学ぶべきことは応用力ではなく基礎力なのだから、最新のテクノロジー情報はあまり必要ない。むしろ、それ以外の点で、非常に多くの豊かな知恵が存在している。人類の長年の知の蓄積が。それを読むべきだ。
「大学の教師の講義なんか下らない」
と思ったら、大学図書館でさまざまな本を読めばいい。「買って読め」とは言わない。高額の本もあるし、入手難の本もあるから、とても買い切れない。買える本は買ってもいいが、買えない本があまりにもたくさんあるから、そういう本を図書館で読めばいい。借りてもいいし、閲覧室で読んでもいい。
普通の人は、そうはしないだろう。「能率よく知識を習得できる入門書をマスターする」というふうにするだろう。教科書みたいなものを何冊か買って、何冊かマスターするわけだ。それはそれでいい。専門の分野は、そういう仕方でもいい。
しかし、そういう仕方では、専門以外の知識を得がたいものだ。専門以外の本については、図書館の本を読むのが最適だ。
ひるがえって、次のような方法は、良くない。
・ 最新のベストセラー入門書を読む。
・ テレビやビデオの視聴覚素材に頼る。
・ インターネットで雑学情報を得る。
こういうのは、あまり良くない。取っつきやすいが、質が落ちるからだ。
かろうじて許容できるのは、次のことだ。
・ 新書版のブルーバックスや岩波新書などを買って読む。
これは悪くはない。その意味は? 質的に優れているということではなく、本のサイズが小さいということだ。つまり、電車のなかで読むのに適する。(家で机に向かって読むべきものではない。)
細切れの時間をつぶすためには、質の良くないものでも構わない。そのくらいの意味だ。決して推奨するわけではない。要するに、ケータイや電子ブックを読むかわりに、同じように携帯サイズの新書( or 文庫)でも読め、という意味。
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ともあれ、大学には、素晴らしいものがある。大学図書館というものが。それを自分専用の書庫にしたつもりになって、あちこちの書籍を読むといいだろう。
そして、その目的は、情報を入手することではなく、思考力を付けることだ。本を読むこと自体ではなくて、本を読みながら自ら考える訓練をすることだ。
一般に、情報を得ることそれ自体は、何の意味もない。ただの遊びにすぎない。しかし、情報を得て、それを自家薬籠中のものをすれば、得た情報を元にして、自分でも何かを生み出せるようになる。そして、自分の生み出したものだけが、真に有益なのである。
といっても、大学時代には、何も生み出せないだろう。それでも、将来になって何かを生み出す準備はできる。その準備と訓練こそ、大学時代になすべきことだ。そして、その場を、大学図書館は提供してくれる。
本サイトは、書評ブログであるが、「この本を買え」ということを念頭にはしていない。読者の知的生産を高めることを念頭にしている。だから、読者は何も買わなくてもいい。むしろ、大学図書館で本を借りまくった方がいい。そのことをお勧めしよう。
ただし、「本を買わなくてもいい」と言っているわけではない。本当に大事な本は、どうしても買わずにはいられなくなる。そういう本にはきっと巡り会うはずだ。そのときこそ、金を払って、ちゃんと買うべきだ。
ともあれ、本を買うか借りるかは二の次だ。大事なのは、多くの良書を読むことだ。
今の時代は、ネット上にある情報をうまく探り出すこと( Google みたいなことをすること)を、知的生産の技術だと思い込んでいる人が多い。違う。知的生産の根本は、情報を得ることではなく、情報を生産することであり、そのためには、思考することが大事だ。そして、読書は、思考のための準備を与える。細切れのネット情報をたくさん読んでも、思考力はあまり身につかないが、体系的に記述された良書を読めば、思考力を涵養できる。
知的生産をしたければ、ネットをあちこち探ったり、ITを使いこなしたりするよりは、良書を読むべきだ。